グラフィティアート界の伝説「Futura(フューチュラ)」ライフストーリーとコラボ作品を探る

グラフィティアート界の伝説「Futura(フューチュラ)」ライフストーリーとコラボ作品を探る via esquire
Futura(フューチュラ)は、グラフィティアートを代表する伝説的な存在として知られるアーティスト。

アパレルやスニーカーなどとのコラボアイテムを多数リリースしており、ファンの熱烈な支持を集めています。

この記事ではFuturaの半生について紹介します。

アートとの出会いは、学生時代の通学風景

Futuraとアートとの出会いは、彼が15歳だった学生時代に訪れました。

電車で通学する道中、Futuraは、多くのグラフィティアートに触れることになります。

アルファベットの配列やアセンダーの描き方などグラフィティアートの芸術的なアプローチに惹かれ、Futuraはグラフィティアートの世界に足を踏み入れたのです。

「Futura2000」としてNYで制作を開始

Futuraは「Futura2000」と名乗り、NYで友人とアート制作を始めます。

その名前にはFuturaの強い思いが込められていました。

未来に目を向けた命名「Futura2000」

Futuraはグラフィティアートに出会った同時期に、母親から養子縁組された親子であることを知らされました。

このことはFuturaが過去から未来へ目を向けるきっかけとなっています。

友人とアート制作を始めたFuturaは、Ford(フォード)社の車「Lincoln Futura(リンカーンフューチュラ)」とStanley Kubrick(スタンリー・キューブリック)監督の映画「2001年宇宙の旅」に触発され、自らを「Futura2000」と名乗るようになりました。

友人とアート制作に明け暮れる日々

Futuraとタッグを組んだのは、同じ公立学校に通っていた友人のAli(アリ)。

電車にモーションタグをつけたり、壁にペイントしたりして、アート制作に没頭します。

地下鉄を通り過ぎる自分たちの作品に、充実感や喜びを感じる日々を過ごしました。

友人の事故をきっかけに、一度缶を置く

アート制作を行う充実した日々を過ごしていたFuturaでしたが、あるできごとが大きな転換期となり、一時期、グラフィティアートの世界を離れることになります。

Futuraに衝撃を与えた友人の事故

ある日、Futuraと友人のAliはトンネルに忍び込み、50缶以上のスプレー塗料を使って6つの電車に番号を付ける計画を立てました。

制作を行っていたそのとき、レールからエアゾール缶に引火する事故が起きます。

Futuraは無事でしたが、Aliは皮膚移植を受けるほどの重傷を負いました。

この事故をきっかけにFuturaはアート制作から距離を置き、アメリカ海軍に籍を置きます。

仕事を転々とし、ニューヨークに再び戻る

海軍に勤務しながら世界中を旅したFuturaは、1978年にアメリカに帰国した後も、エビ漁、トラック運転手などさまざまな仕事を転々としました。

その後、グラフィティシーンが全盛期を迎えようとしていたNYに戻ります。

Futuraは新たなグラフィティアートに刺激を受け、制作を再び始めました。

抽象的グラフィティアートの先駆者として

NYに戻って以降のFuturaは、抽象的なアプローチを好んで用いるようになります。

それまでのグラフィティアートはレタリングが中心だったため、Futuraのアプローチは新鮮なものとして迎えられました。

次第にFuturaは抽象的なグラフィックアートの先駆者として評価されるようになります。

グラフィティアート時代のバブルと崩壊

NYでは、Futuraを含む伝説的なアーティストが次々と誕生し、彼らを中心にグラフィティアートは全盛期を迎えました。

しかし、大きな盛り上がりは長くは続かず、5年ほどで終焉を迎えてしまうのです。

伝説たちと展示会を開催

Futuraは、Jean-Michel Basquiat(ジャン=ミシェル・バスキア)、Keith Haring(キース・へリング)、Kenny Scharf(ケニー・シャーフ)といった伝説的なアーティストたちと共に展示会を開催します。

グラフィティアートは全盛期を迎えており、Futuraはアートムーブメントを起こし続ける中心的人物でした。

バンド「The Clash」アルバムアートワーク作成とツアー同行

Futuraはミュージシャンのアルバムカバーを多く手がけています。

最初に手がけたのはバンド「The Clash(ザ・クラッシュ)」で、シングル「THIS IS RADIO CLASH (7")(ディス イズ レディオ クラッシュ)」やアルバム「Combat Rock(コンバット ロック)」のスリーブの制作に携わっています。

The Clashのツアーにも同行し、演奏中にスプレーペインティングを行って話題を集めました。

バブルがはじけ、感じた安堵

Futuraや仲間たちが立役者となったグラフィティアートのバブルは約5年間ではじけました。

バブルがはじけたことについてFuturaはインタビューで「ほっとした」と答えています。

Futuraはアート制作から離れ、郵便局勤務やタクシー運転手、自転車配達員になり、家族と共に過ごす日々を送りました。

伝説的レーベルMo' Wax 創始者「James Lavelle」との出会い

Futuraがグラフィティアーティストとしてのキャリアを復活させるきっかけになったのは、伝説的なレーベルの創始者との出会いでした。

自転車の大会で、運命の出会いを果たす

Futuraは、1993年にベルリンで開催されたサイクルメッセンジャー世界選手権に参加します。

これは、仕事として続けていた自転車配達員のスキルを競うものでした。

Futuraはここで90年代を代表する伝説的レーベル「Mo'Wax(モワックス)」の創始者、James Lavelle(ジェームス・ラヴェル)と出会います。

リリース作品の多くに彼のアートワークが使用

ラベルはFuturaの作品を購入し、その多くを「Mo'Wax」からリリースする作品に使用しました。

FuturaはLavelleが設立した音楽集団「Unkle(アンクル)」のロゴを制作。

Unkleを象徴するものとして、さまざまな作品に使われました。

自身のレーベル「Futura Laboratories」からアパレルを発表

90年代頃になると、Futuraはアパレル業界にも進出を遂げます。

1998年には自身のブランドである「Futura Laboratories(フューチュラ ラボラトリーズ)」を立ち上げて服のデザインに精力的に取り組み、2004年には福岡に世界初の旗艦店をオープンさせました。

Futura作品の象徴的なキャラクターである「Pointman(ポイントマン)」などをあしらったラインアップに、多くのファンが注目しました。

「Futura 2000」から「Futura」へ

2000年を迎えたあと、彼は「Futura2000」から「Futura」へと改名しました。

「Futura 2000」から「2000」を外した理由について、Futura は「Futura 2000と名乗り始めた15歳のときは先を見据えすぎていて、先に何があるのか分からなかったし、2000年まで生きられないと思っていた」「1999年末、人々は2000年問題を心配していた。2000を失うときだと感じた」と語っています。

ブランドとのコラボレーションを精力的に行う

唯一無二の表現を持ち、伝説的存在であるFuturaは数々のブランドとコラボレーションを果たしています。

2019年に登場した「Off-White(オフホワイト)」とのコラボ作品では、ブランドの象徴でもあるPointmanが随所に用いられています。

また、Supreme(シュプリーム)とのコラボレーションでは、1991年の発表の作品「The Good,The Bad,The Ugly(ザ ゴッド,ザ バッド,ジ アグリー)」がフィーチャーされ、双方の魅力が融合したラインナップを披露。

Nike(ナイキ)の人気スニーカー「Dunk Low」とOff-White、Futuraのトリプルコラボも2019年に誕生しています。

まとめ

学生時代にグラフィティアートに触れたFuturaはNYでその全盛期の立役者となりました。

ストリート、キャンバス、アパレルと舞台を広げながら活躍を続けている、抽象化グラフィティアートの伝説的な存在です。

SNKRGIRL編集部
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神戸・東京・ニューヨークのメンバーと共にグローバルに活動する編集部メディアチーム。

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