10月15日公開予定【Queens of Sole 特別版 | 高見 薫さん】EP.2 “ファッション”としてのスニーカー、そして女性のための1足が誕生

10月15日公開予定【Queens of Sole 特別版 | 高見 薫さん】EP.2 “ファッション”としてのスニーカー、そして女性のための1足が誕生

これまでさまざまなプロジェクトに関わり、600足以上のスニーカーを保持するなど、まさにスニーカーと人生を共にするスニーカー界のレジェンド「高見 薫(たかみ かおる)さん」への単独インタビュー第2話。

今回は“ファッションアイテムとしてのスニーカー”が確立されていく背景や、初めての“女性のためのファッション向けスニーカー”の誕生についてを振り返ります。

INDEX

ゲスト:高見 薫さん
インタビュアー:壺阪 英莉子 (SNKRGIRL編集長)

ハイテクブームが下火に、ファッションアイテムとしてのスニーカーに舵を切る

日本独自のマーケティング戦略を模索

Air Max 95のヒットから“ファッションアイテムとしてのスニーカー”が誕生するも、ブランド側はその方向性には否定的だったようです。

ファッションアイテムとしてスニーカーが取り入れられ、一時的に売り上げが伸びたものの、その後トレンドが過ぎると売り上げが急激に落ちたため、ブランド側はそれを「スニーカーを“普段履き”として提案したから」という結果として捉え、

“スポーツのための靴”、“アスリートのための靴”という原点に戻るべき

という意見が再評価されることとなりました。

また、海外では水面下で動いていた「ハリウッドプロモーション」という人気映画のなかで出演者が着用することでスニーカーを印象付けるプロジェクトも、当時の日本では映画による影響力が少ないのではないかということから、日本で進めるのではなく「日本のカルチャーに合うことは何なのか?」を探すことに。

そこで、毎日街に出て最新のトレンドを取り入れるための情報収集をはじめます。

ファッションアイテムとしてスニーカーを取り入れるという発想が定着するには、まだまだ時間を要すこととなったのでした。

日本の古着文化に着目「CO.JP」の誕生

日本でのマーケティングを進めるにあたって最新トレンドを調査する中で、藤原ヒロシさんとのお付き合いがはじまったのも、1999年のことでした。

トレンドを追っていくうちに、日本特有の流行のひとつである“古着ファッション”に着目するようになります。

当時、他の先進国では「新しいものを作って、古いものは捨て、どんどん新しいものに変えていく」という傾向があったのに対し、「ひとつのものを長く大切に使う」傾向が根強く残る日本の若者の間で広がっていた「古着ファッション」にフォーカスし、“古着に合わせやすい靴”を作ろうと提案したそうです。

そこで誕生したのが、世界のスニーカーカルチャーに大きな影響を与えることとなった「CO.JP (シーオードットジェーピー)」でした。

しかしながら、当初アメリカサイドにその提案がすぐには受け入れられたわけではなかったといいます。

Queens of Sole シリーズ | 高見 薫さん インタビューEP02-SNKRGIRL-INTERVIEW-SERIES-KAORU-TAKAMI-05

日本限定での発売であった「CO.JP」は、"シーオージェーピー"という通称ですが、「コンセプト・オブ・ジャパン」が正式名称。また、アルファベットからの呼び名も本来は“シーオードットジェーピー”と呼ぶそうです。

日本限定で発売し、トレンドセッターとなるようなスニーカーをリリースしていこう、というプロジェクトでした。

新たな日本限定スニーカーとして世界でも認識され、マニアの間で注目を集め始めたのが1998年〜1999年のこと。

その頃、「CO.JP」のスニーカーを並んで買っていた人でも、平日は革靴を履いて仕事に出かけ、週末にだけスニーカーを履くといった傾向は強く、現在ほどの広がりに比べるとまだまだほど遠い状況でしたが、日本からもスニーカートレンドを発信していこうという機運はより高まっていました。

スニーカー人生の分岐点「atmos」担当に

「スニーカーをカッコよく売り切る」新たな販売スタイル

高見さんのキャリアのなかで「atmos」の担当になったことは、大きな分岐点となったといいます。

特に印象に残っていると話すのは、atmosとNikeが“勝手に”作った靴が入庫してきて販売することになった2001年に起こしたある“仕掛け”でした。

今でもatmosといえば、55マスの白い箱が並べられ、そこにスニーカーを芸術品のように並べるのが特徴的ですが、当時からそのディスプレイ方法は知られていました。

atmos x Nikeコラボモデルのスニーカーが入庫してきた以上、売るしかないという状況に置かれた高見さんは、atmos店内にある55マスの棚に「コラボスニーカーだけを置いて売る」ことを提案。

2種類のみのスニーカーがずらりと棚を埋め尽くす圧巻の光景は、それまでには見られなかった大胆な挑戦だったものの、斬新で、発売当日の原宿の注目を集めるものでした。

結果、スニーカーは早い段階で完売。

それ以降、atmosではローンチ日に特定のモデルだけ並べるというスタイルが始まったといい、高見さんのスニーカー業界でのキャリアを語る上でもターニングポイントになる出来事となりました。

常に新しいことを考えて、実際のアクションに落とし込んでいくという日々はかけがえのないものであったといいます。

入社時に感じていた「カジュアルアパレルの流行」が現実に

フットウェア(当時は“スニーカー”という言葉も使われておらず、“フットウェア”という単語を使っていた)が盛り上がりを見せたため、次はアパレルに力を入れていくという方針への転換も進んでいました

そんな中の2001年、カジュアルアパレル市場を見据えて販売を行う部署が新たに発足し、高見さんもその部署に異動になると、“裏原宿”のセレクトショップへの営業を担当することに。

当時、女性向けスニーカーショップはありませんでしたが、担当していたBEAMSでは女性向けの部門もあったため、スニーカーの取り扱いやショップの店員さんにも女性の姿は見られました。

しかし、バイヤーは男性であったり、女性向けのファッションにスニーカーを取り入れるという発想はまだ薄かったといいます。

ファッション特化した最初のウィメンズスニーカーを生み出す

誰のため?ニーズに合わないウィメンズスニーカー

高見さんが原宿にあるショップを担当し始めた当時、競技用モデルは女性サイズも展開されていましたが、Air MaxシリーズやAir Jordanシリーズには女性向けに作られた「ウィメンズモデル」はありませんでした。

女性がスニーカーシーンのターゲットのひとりとして認識されることはほとんどなく、女性向けモデルが男性と同様に展開されることも少なかったため、履きたい人は「BG(Boys Grade School)」という子供用として発売されていたスニーカーを履いていました。

本国アメリカではウィメンズモデルも開発されたことはありましたが、デザインとニーズとの間にズレがあることも多く、スニーカーを履いてオシャレをしたい日本の女性が求めるデザインとも少しかけ離れていることもしばしば。

新たなターゲットは“彼に待ちぼうけを食らう女性”

ウィメンズモデルの展開がまだまだ遅れを取っていたなか、女性にもスニーカーを買って欲しいという思いがあった高見さん。

当時の原宿では、男性がスニーカーを買っている間、いっしょに来ていた女性がどこかで待っているという場面を見ることが多くかったといいます。

そこで、女性もどうにか巻き込むことができないかと考えるようになりました。

ただ、アメリカ本社にその話を持ち込むと、また女性が求めているデザインと相違する“かわいい”スニーカーを与えられてしまうと考え、ここは日本人や日本で展開しているブランドに協力してもらおうということに。

しかし実際にスニーカーを履いている女性もいなかったため、協力してくれる日本人を探すことも困難だったといいます。

そこで、「スニーカーを履いている女性が集まっている場所だったら可能性があるのではないか!?」と考え、声をかけたのがビーズインターナショナルが運営する「X-girl」でした。

X-girlコラボモデル「X-girl x Nike Blazer Mid」の誕生

女のためのファッション向けスニーカー開発のためには、“ここしかない”と協力を仰いだ「X-girl」。

当時一世を風靡した“スキニーパンツ”とスニーカーを合わせるファッションも提案していたX-girlは、女性向けのカジュアルファッションにスニーカーを合わせるスタイルを先駆的に発信していました。

そこで2003年、X-girlとのコラボレーションとして初めて「女性のためのファンション向けスニーカー」を製作。

XGirl_Nike_Blazer Mid_CO.JP_1

CO.JP展より

スニーカーを履いてオシャレを楽しみたい女性のニーズにはマッチしないデザインも多かったなかで、X-girlとのコラボレーションで誕生したX-girl x Nike Blazer Midの「媚びないかわいさ」と抜群のデザイン性に、多くの女性が魅了されました。

XGirl_Nike_Blazer Mid_CO.JP_2

CO.JP展より

女性が初めてスニーカーを買うために並んだ日

X-girlとのコラボモデルについて、Nike社内でもサイズ展開についてさまざまな話し合いがなされ、メンズサイズも少数展開されたものの販売対象のメインは“女性”となり、日本で初めて“女性のためのファッション向けスニーカー”が誕生します。

2003年に「X-girl x Nike Blazer Mid」が発売された当時、女性がこのスニーカーを求めて列を成し、“女の子がスニーカーを買うために初めて並んだ日=この商品の発売日”は、女性とスニーカーの歴史において大きな分岐点となりました。

Youtubeで公開中の本編:EP.2

SNKRGIRL編集部
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神戸・東京・ニューヨークのメンバーと共にグローバルに活動する編集部メディアチーム。

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