【Inspire to Aspire:DANCER TOMO】前編|ダンサー人生を変えた転機と今のTOMOを形造ったもの

【Inspire to Aspire:DANCER TOMO】前編|ダンサー人生を変えた転機と今のTOMOを形造ったもの

ジャネット・ジャクソンやマドンナ、ミッシー・エリオット、Fat Joe、リル・キム、Cardi B、J Balvin など、数々の超有名アーティストとの共演を果たし、ジャネットからはなんと本人からも指名を受けたという、NYを拠点に世界を舞台に活躍するトップダンサー「TOMO」さん。

 

2019年に取材した前回から今に至るまでどんなストーリーがあるのか、最新のお話を聞くインタビュー続編となる今回は、大変だったことや辛かったこと、これまでのダンサー人生で忘れられない出来事など、TOMOさんのダンサー人生や彼女自身を形造ったものを紐解きます。

5年ぶりのインタビューとコロナ禍

改めて自己紹介お願いします。

ニューヨークでダンサーをしています。TOMOです。

ニューヨークは11年目です。

 

前回インタビューしてからどういった変化がありましたか?

まずコロナになったじゃないですか。だから1回仕事がほぼ全部なくなって。

どうしようかなってすごい悩んだし、ダンスをやめる...いややめるではないけど、(ダンスシーンを1度離れること)を考えた時期もありました。

だけど結局なんとか細い糸にしがみつきながら(笑)頑張って這いつくばって今に至ります。

やっていることは大体同じというか、先生としても働かせていただいているのと、バックダンサーとしても働かせていただいているのと、

最近はニューアーティストとかまだこれから駆け出しのアーティストだったり、頑張っている子たちの振り付けとかも始まりました。

 

コロナはダンサーを本当に苦しめましたよね。

本当に悩みましたよ。どうしようかなって。

コロナ禍のうちに日本にも結構帰って、日本でもダンスを教えたりもできてたのでよかったけど。

NY生活の過去8年間で印象的だった出来事

2015年から2019年、前回のインタビューからコロナ前の4年間もあったと思うのですが、その4年間で印象的だったことなどはありますか?

前回のインタビューのあと、マドンナのウェブコマーシャルのオーディションを受けました。

でも最初そのお仕事がマドンナとのお仕事ってことがわかんなくて、「朝早くて超行きたくない」って思ったけど、なんかパッと目が覚めたんです。

そういう時って不思議で、パッと目が覚めて起きれちゃったから行かなきゃと思って。

でも結構遅刻して行っちゃったんですよね。行ったらもうグループ1が振り入れ始まってて、その中から1人出てきて「TOMO、マドンナだよ」って言われて「えー!」みたいな感じで。

まさか受かると思ってなかったですけど、選んでいただきました。

それはCMだったんですよね?

マドンナがプロデュースしてるスキンケアブランドがあって、それのCMでした。

そのCMの見た目としてはオーディションの設定。

だからオーディションに受かった子たちが、CMの中でオーディションをやるっていうコンセプトでした。v

コロナ寸前の仕事でConverseのモデルをやらせてもらったんですけど、そのモデルをやってから2日後にロックダウンに入ったんです。

コロナ中にSOHOにそのポスターが貼られたので、全然みんなに見てもらえなかった。

それは印象的でしたね。わざわざ電車に乗ってマスクして見に行きました。

https://www.instagram.com/p/CENqLNKg0Kb/?utm_source=ig_web_copy_link&igshid=MzRlODBiNWFlZA==

ダンスの仕事だと、リルキムのMVとかやってました。「Go Awff」っていう曲で、ダンサーが目立てるようなMVだったので、それはすごいやりがいがありました。

J Balvinとドルビーサウンドの会社のCMもすごく楽しかったですね。

ダンサー人生を変えたMissy Elliot (ミッシー・エリオット)

今でこそ数々のビッグネームのアーティストとお仕事されているTOMOさんですが、最初に一緒に仕事した大物は誰だったんですか?

HipHop好きの方の中でとか、私の中では大物なんですけど、1番初めはMissy Elliot (ミッシー・エリオット)とCiara (シアラ)のBlack Girls Lockっていう曲で踊る機会をもらったことです。

私がVISAを取るきっかけにもなった機会で、それが1番最初ですね。

 

受かるってすごいよね。しかもアジア人が受かるって。

当時ビザがなくて学生だったんですよね。

学生ビザだったからまさか受かる気もなくて。それでツアーにも選んでいただいたけど、ビザの関係で行けなくて。

そこからちゃんとビザを取らないとなっていうきっかけにもなったお仕事だったから、それ以降ミッシーさんとは働けていないんですけど、今でもすごく覚えています。

意地でがむしゃらだった過去

そこからビザ取れるように頑張っらはたので数年かかった?

最初のアーティストをやってから、そこから3ヶ月で取りました。

 

はや?!でもそんなにすぐに取れるものだったんですか?

その時学生だったからミッシーはあんまり使えなくて、学生の時は働けないから。

でももうとにかくビザが必要だったので、日本での仕事とかも集めに集めて、もう意地。

絶対取ってやるっていう意地で、3ヶ月もう毎日弁護士さんのところに通い詰めて取りました。

意地気合い根性です(笑)

 

それだけミッシーのツアーに参加できなかったショックが大きくて、あの時が本当に人生で1番きつかったかもしれない。

しかも選ばれてたツアーメンバーが最強だったんです。

そこに入れる...なんて甘い話はないってことです。なんでも。上手くは行かないってことですね。

 

でもその後3ヶ月後にビザも取って、今のブロックっていう今のエージェントにも入れて、最初にリルキムの仕事をさせてもらったんですよ。

改めてダンサー人生を考えた日本での1年

祖父母にもらった大事な時計

リルキムのお仕事をさせてもらった後に、まだ半年もアーティストビザで働いていないのに、日本から大きな仕事をいただいたので、弁護士の人にダメって言われたのに2日後とかのチケットを取って帰っちゃったんです。

でも出たら日本で面接を受けてもう一回スタンプをもらってからじゃないともう一回帰ってこれないんですよね。

日本に無理やり帰っちゃって、面接に落ちて、3ヶ月で取ったビザが全部破棄になっちゃったんです。

それもガーンってショックを受けて、もうわけわかんない。

でもとりあえずニューヨークから1回撤退しないとダメだってなって、そこから荷物を引き上げるためにニューヨークに戻ってきました。

観光ビザでは入れたのかな。もちろん裏には呼ばれましたけど、でも面接も落ちちゃったからしょうがないじゃんって。

荷物をまとめにニューヨークに帰って、そこから1年日本に帰りました。

この1年で日本からアーティストビザをもう一度提出して、取れなかったらもう日本を拠点にやろうって覚悟を決めていました。

そこで1年ガッツリ日本で頑張って、1年後にもう一度ビザが取れたのでニューヨークに帰ってこれました。

 

その時は弁護士にもダメって言われたのになんで?

ダメって言われたけど帰った(笑)

でも帰ったからこそ、日本のワークショップもたくさんできて、日本でも知ってもらうことが出来たんです。

だから結果オーライだった!どんだけポジティブなんだよって感じですけど!笑

 

本人がそれで済んだならよかったけど(笑)

やっぱり精神的にきつかったですけどね。

日本でのワークショップもすごい楽しかった。いろんなところでやらせてもらったりとかして。

ニューヨークにいたっていうことがすごい使えたし、トレーニングしてたものとかニューヨークで得たものが全部日本で活かせた。

1年後に日本からアーティストビザをアプライして、受かってニューヨークに帰ってこれたんです。

 

激しい。その激しさにもエネルギーを感じます。

有名アーティストからオファーが

そうやって色々大変なこともあったりして、帰ってきてからリル・キム、J Balvinとかいろんなアーティストの方とお仕事してますよね。

ニューヨークに帰ってきてから、とにかくがむしゃらにずっとやり続けてました。

 

じゃあその後コロナになってしまったんですか?

ちなみにCardi Bはいつ頃?

多分、Cardi Bは私の予想だと...

 

予想?!あなたCardi Bとの仕事やりましたよね?思い切りツアーにも出てコーチェラにも出て、なんなら、あのインパクト抜群の箱入りの靴までもらって...いつだったか覚えてない?(笑)

あー!あの靴!懐かしい!まだありますよ、ちゃんと。

1回も履いてないですけど、いつかね!(笑)

飾った方がいいですよね。今は部屋の奥底にあります。

バービー人形の隣とかに並べておこうかな(笑)

 

最後にインタビューしてもらった時にはCardi Bやってたので、2018年とか2019年より前だと思います。

2017年とかかな。

それからスポットツアーやった時に呼んでもらえたりして、その後もう一回リルキムさんにも声をかけてもらいました。

あとFat Joe (ファット・ジョー)の「All The Way Up」にも出演しました。

でもあの当時私はあんなにどこでも流れる曲のMVに出るとは思っていなかったんです。

しかもMVに出ているメンバーが豪華で、リエハタさんも出てるんですよ。

日本からサヤカちゃんっていう人気のダンサーの子とか、あとリコちゃんっていうニューヨークにいた日本人のダンサーとか。

あと、2人日本から来てくれて、日本では大御所と呼ばれるOH GIRL!のマイコさんが振り付け師っていうのにオファーいただきました。

それで、その曲が本当にニューヨークで毎日いろんなところで流れてたんです。

それこそスニーカーショップとか道の車からとかいろんなところで流れてて、「すげー!この曲やったじゃん!」と思ってて。

そしたらその後、BTかな?サマージャムとか、ステージにも一緒に出させてもらったりしてパフォーマンスもさせてもらったりしました。

このファット・ジョーのMVに出演させていただいたのは、Cardi Bの前でした。

憧れの日本人ダンサー「OH GIRL!」

余談ですけど、"OH GIRL!"さんとも是非会ってみたいんですよね。

話もよく聞いてるからすごく会いたい。SNKRGIRLにも合いそうな気がしてるんです。

 

4人とかでやったら半端じゃない!

私自身もすごくお世話になっていて、仲良くさせてもらっているんです。

OH Girl!って4人いるんです。

マイコさん、アコさん、ナナコさん、ナナさんの4人なんですけど。

特にマイコさんとアコさんのお二人は、ジョーの時に全部お二人がやってくれたんです。

振り付けから衣装から全部。

その時にすっごくお世話になって、すごく仲良くさせていただいて。

でも4人が揃うと本当に、違うんです。

やっぱり伝説を作った4人だなって。日本のダンサー界の。

今はもうみんなバラバラで一緒に踊っていないんですけど、4人が最後LAでパフォーマンスしたのかな。

何色か忘れたんですけど、上下緑とかサテン系のスーツをきて、みんなバチバチに踊って、ハットとか被って、スニーカーも揃ってたりして、本当に4人は憧れ。かっこよかったのを覚えてます。

NYで築いたダンサーとしてのキャリア

そういったいろんなギグがあって、日本とのコネクションというか、日本の憧れの方達とも一緒にお仕事して、海外の有名アーティストとも仕事もして...

そういうふうに日本でのキャリアからNYのキャリアに結構ジャンプした感じがしてるんですけど。

ジャンプしてますね。正直日本にいたときはフラフラしてたんですよ。

ニューヨークに来たのは23さいの時とかだったんですけど、本当にフラフラしてた。でもやっぱりダンスはずっとやってて。

それをニューヨークに来てしっかり考えたって感じだったから、日本で考えてたっていうよりかは、それこそビザ落ちたことによって日本でやらせてもらえる機会があったって感じです。

日本のアーティストさんとかはほとんど働いたことないです。

 

ミッシーのオーディションに受かったっていうのが、キャリアをレベルアップさせることになったんですね。

そうですね、かなり。

ブラックカルチャーとの結びつき

そこをゲットできたのはなぜだったのか。

前回も話した内容ではあるんですけど、「黒いね」って言われることない?っていう話で、これを言うのはBlackの人が言うのだけが正しくて、私たちが言うなって言うのは根本にはあるんですけど、もうつい言ってしまいそうになるところも感じるんですよね(笑)

だいぶ抜けたと思うんですけどね(笑)

抜けたと勝手に思ってただけで、やっぱり抜けない。

もう培われたものがありますね。

 

もちろん黒さとは何かは私たちが定義するべきものではないんですけど、私たちの中で、黒人の人たちを知っている身として感じるものがめちゃくちゃある。

それって日本人の中でも通ずるところがあるとすれば、、、下町なところとか?

確かに!それは当たってますね(笑)

 

そこがどうやって培われたのか。前回のインタビューでもお聞きして形としては出していないんですけど、当時も「小学校の頃から2 packを聞いていて、それかな?」っておっしゃっていましたよね。

それは間違いないです(笑)

小学校の宿題しながら50セント、ジェイ・Z、チンギー、2 packとか。

銃声が入った音楽も聞いてました(笑)

親もなんだこの子はってびっくりしてたでしょうね。

でも多分、ダンスやってるからしょうがないぐらいの感覚だったんじゃないかな。

 

そういう成功の過程に、小さい頃に習ったものから影響を受けたダンサーさんや先輩、先生があるんですね。

結局はそう言うギグがもらえるって、自分のどういうところが影響していると思いますか?なんでだと思う?

最近は年齢とともに内容も変わってきてるけど、最初きた時から20代の後半までは、黒人のアーティストとの仕事が多かったんです。

なんでだろうって考えた時に、自分自身も黒人の子たちに負けない、同じように見えるように踊りたいってずっと思ってたし、そういうダンサーになりたいってずっと思っていました。

日本人を売りにはしてなかったんです。

「日本人だけど黒人みたいだよね」っていう踊りをするダンサーを求めてたから、そこに上手くハマれたのかなとも思います。

黒人の人たちと一緒に踊っても、TOMOならいけるとか、それを向こう側が欲しいと思ってくれたのが、パッション的にもダンス的にも同じ方向でいけたんだと思います。

 

でもダンサーの中でそういったマインドの人も多いと思うんです。でもなりきれない。そこがなかったりする。

黒人の人とかアメリカ人が見ても、“ただなりたがっている”、“トライはしている”っていう見られ方をする人も多いじゃないですか。

もちろん、そういったルーツで生まれてきていないから何をしても一旦ロジックとしては"フェイク"になる。

でもその中で、あの人いいねってなる、そう思わせるものが何なのか気になります。

多分ブラックカルチャー好きだから。逆に言えばアメリカに来てから黒人の男性としか付き合ってなかったし、黒人の女の子たちとしか遊ばなかった。

むしろそういうのが私のライフスタイルだと思ってたからそこに違和感も感じなかったんです。

 

それってそうなりたいからその子たちと関わっていたのか、元々自分自身に合うからそっちに流れて行ったのか?

合わせに行くことはなかったですけど、自然に合うっていうよりかは、私がいいな、仲良くなりたいな、素敵なファッションって思う子がみんな黒人でした。

だから“好み”なんだと思います。タイプ?心のそこからいいなと思うダンサーも全員黒人でした。

 

そこの波長が合うっていうのもあるんでしょうかね。無理をしていないなら。

ファッションとかも、元々スニーカーがすごい好きだったから、詳しくはないけどいつも良いと思うスニーカーを履いて、レッスン着もダボダボのスウェット着てたんです。

結局ずっと自分がダンサーとして過ごしていた中で、好きな靴や服が黒人の子達と自然と息が合ったっていう感覚はありました。

自然と「TOMOそれどこで買ったの?」とか「すごくかわいい」とか声をかけられるきっかけになって、どんどん繋がっていきました。

今のダンサーTOMOを形造ったもの

(冗談っぽく)もしかしたら黒人の血がどこかで入ってるのかも?!(笑)

 

いや、それマジで一度お母さんとかに聞いてみたら?(笑)ね〜、私って本当は、、、?みたいな(笑)

でも、なんならうちのお父さんがもう「俺は黒人の血がちょっと入ってる」とかってってたりします。入ってないんですよ、全然日本人なんですけど(笑)

本人はそう言い続けている(笑)

 

それはどうして?どういった部分で?

父はソウルトレインとかミュージックが大好きで、朝からレコード流したり、プレイリストもよく作ってるんです。

夜ただいま〜って帰るとそのプレイリストを1人で聴きながら踊ってたりしてます。

 

そこじゃないですか!?2 packだけじゃなくてそれも要素として入ってますよ!笑

親から教わったのはソウルミュージックで、師匠から習ったのはHipHopなんです。

だからどっちの曲も大好きだし、どっちのバイブスも大好き。

 

ブラックカルチャーに囲まれて育ったっていうのはあるかもしれないですね。

そうですね、本当にそうかもしれない。

 

それをダンスを始めてから入れたんじゃなくて、小さい頃から日常的に触れて育ってきたからきっと自然に内側から出る何かがあるのかもしれないですね。

自分の感覚としても、違和感がない。

それも影響して、あの子良いね!ってなったところはあったのかも。

 

to be continued.... 第2話へ続く

SNKRGIRL編集部
SNKRGIRL編集部
神戸・東京・ニューヨークのメンバーと共にグローバルに活動する編集部メディアチーム。

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