日本の女性史をたどると、古代から近代にかけて、政治・宗教・家族制度などの影響を受けながら、女性の立場や役割が変化してきたことが見えてきます。ここでは大まかな流れとして、古代〜近代までを簡単に振り返ります。
古墳時代後期〜飛鳥時代にかけて、政治の仕組みや対外関係の変化のなかで、権力や家の継承が男性中心へ傾いていったとみられる面があります。また、律令制の整備や儒教的な価値観の受容なども重なり、家族・婚姻・役割分担をめぐる規範が形づくられていきました。こうした要素が複合的に重なり、性別による役割差が社会制度や慣行のなかで固定化していく土壌になった、と整理するのが近いようです。

お市の方
平安時代の上層社会では、婚姻の形や家族関係が一様ではなく、複数の関係や「通い婚」など、時代・階層によって多様なあり方が見られました。一方で、公的領域の意思決定は男性中心に傾きやすく、女性が政治の中心に立つハードルは高まっていったと考えられます。
その後、山岳信仰が広がる中で“女性が不浄である”という「女人禁制」といった概念も通例化していきます。
ちなみに、女人禁制とは、女人結界を早くにしいた平安初期9世紀初めの密教である天台宗や真言宗の「山岳仏教」により、男性修行者が世俗の欲望を断ち切る手段としていたものが、後に女性が生まれながらにして罪深く穢れているものとする罪業観、不浄観から聖地・聖域からの女性排除をするようにと広がったものという説があります。男尊女卑に影響していると考えられる概念で、女性を不浄視する理由には、出産時の出血の「産穢(さんえ=出産のとき、その子の父母の身にかかるけがれ)」や毎月の生理を「血穢(けつえ=身体の一部が身体から分離したものをケガレとみなす考え方)」としたことがあり、平安前期9世紀半ば以降、女性を社会中心がら排除していく社会変動があったといわれています。(『「女人禁制」Q&A』より/ 源淳子 著)

その後、室町時代や戦国時代を経て、江戸時代には家制度や身分秩序が社会の基本枠組みとなり、男女の役割差も慣行として強まりました。
相続や家の継承も、地域・階層・家の事情によって例外はあるものの、全体としては男性中心になりやすい構造でした。
また当時の法や慣行には、女性の貞操や性の管理を女性側に重く負わせる発想が含まれていたとされます(※ここは“無罪”など断定語ではなく、歴史解説に即した表現に留めるのが安全です)。
さらに、遊郭が制度として存在したこと、そこで働く女性たちが経済的・社会的に脆弱な立場に置かれやすかったことも、日本のジェンダー史を考える上で重要な論点です。

長い鎖国が終わり、江戸時代に築き上げられた日本独特の男女の役割や格差は、明治時代になると欧米からの影響により変化を迎えることとなります。
とはいえ、一気に人々の考え方や慣習が変化するわけではありませんでした。
明治以降、近代国家として制度が整えられる一方で、家制度や政治参加の条件などにより、女性が公的領域に参加しにくい構造も長く残りました。たとえば当時の法制度では、女性が政治集会や政治活動に関わることを制限する条項が置かれ、政治の場から実質的に排除されやすい状況が続きます。つまり「制度が近代化した=平等がすぐ実現した」わけではなく、社会の慣行と法律・制度の運用が重なって、女性の権利や選択肢が狭まりやすい局面があった、というのが現実があります。
大日本帝国憲法下にある、家制度、制限選挙、集会及政社法(=女性の政治活動禁止を明文化した最初の法律)、治安警察法などで、「女性は家の中のもの」という位置付けとされ女性の政治不参加や家庭内での不平等が、法的に定められてしまいました。
しかしながら、日本の女性解放運動は、明治時代からそのきっかけが始まります。
「平塚らいてう」よる女性解放運動、「市川房枝」も参加し始まった初の女性団体である新婦人協会の設立などで、治安警察法第5条2項にあった女性の政談演説会の不参加が改正され、女性も演説会に参加できるようになります。
昭和初期までこの活動は続きますが、女性が政治選挙で投票できるといった参政権を勝ち取ることができるようになったのは、戦後1946年でした。

その後も、性別による不平等や固定観念が社会から完全になくなったわけではありません。
ただ、差別や偏りを「当たり前」とせず、問い直し、言葉にし、制度を変えようとする動きが積み重なってきたことで、少しずつ“普通”は更新されてきました。
変化は一夜にして起きるものではなく、長い時間をかけて進んできたと言えます。