日本の女性史は、男女間の性差による不平等が現れ始めたあたりである飛鳥時代まで追っていく必要があります。
まずは、5世紀ごろに、倭の五王時代に女性首長が減少し軍事化が進んだことで、男性優位・父系化が進行。その後の飛鳥時代に、唐から伝来した儒教や仏教や律令には、家父長制や男尊女卑の要素が含まれたこともあり、性差が社会的なシステムの中でうまれる流れが始まりました。
お市の方
平安時代になると、女性の政治力はかなり低いものとなり、一夫多妻制も成立します。その後、山岳信仰が広がる中で“女性が不浄である”という「女人禁制」といった概念も通例化していきます。
ちなみに、女人禁制とは、女人結界を早くにしいた平安初期9世紀初めの密教である天台宗や真言宗の「山岳仏教」により、男性修行者が世俗の欲望を断ち切る手段としていたものが、後に女性が生まれながらにして罪深く穢れているものとする罪業観、不浄観から聖地・聖域からの女性排除をするようにと広がったものという説があります。男尊女卑に影響していると考えられる概念で、女性を不浄視する理由には、出産時の出血の「産穢(さんえ=出産のとき、その子の父母の身にかかるけがれ)」や毎月の生理を「血穢(けつえ=身体の一部が身体から分離したものをケガレとみなす考え方)」としたことがあり、平安前期9世紀半ば以降、女性を社会中心がら排除していく社会変動があったといわれています。(『「女人禁制」Q&A』より/ 源淳子 著)
その後、室町時代や戦国時代を経て、江戸時代には男性優先主義は定着。
例外を除き女性が家督を相続することもできなくなり、江戸幕府による「公事方御定書」には、密通により妻の貞操が侵された場合、夫は妻および相手男性を殺害しても「無罪」と書かれているほどでしたし、江戸幕府は人身売買を禁止したものの、遊郭は公認、遊女の身売りは黙認されていました。
長い鎖国が終わり、江戸時代に築き上げられた日本独特の男女の役割や格差は、明治時代になると欧米からの影響により変化を迎えることとなります。
とはいえ、一気に人々の考え方や慣習が変化するわけではありませんでしたし、家父長制が法律に含まれることとなったために、女性の権利が低い状況は依然続いていました。
大日本帝国憲法下にある、家制度、制限選挙、集会及政社法(=女性の政治活動禁止を明文化した最初の法律)、治安警察法などで、「女性は家の中のもの」という位置付けとされ女性の政治不参加や家庭内での不平等が、法的に定められてしまいました。
しかしながら、日本の女性解放運動は、明治時代からそのきっかけが始まります。
「平塚らいてう」よる女性解放運動、「市川房枝」も参加し始まった初の女性団体である新婦人協会の設立などで、治安警察法第5条2項にあった女性の政談演説会の不参加が改正され、女性も演説会に参加できるようになります。
昭和初期までこの活動は続きますが、女性が政治選挙で投票できるといった参政権を勝ち取ることができるようになったのは、戦後1946年でした。
その後現代に至るまで、男尊女卑の事例や考え方が社会の中で完全になくなったわけではないですが、「悪しき考え方」という認識が広がり、マスメディアやSNSで批判され、男女の平等が一般の人々の生活に浸透し始めるまで、約1600年ほどかかっていることになります。