ケガレと男尊女卑【日本の女性史を学ぶ】女性の権利向上に尽力した人はいるも性差の不平等は続く

ケガレと男尊女卑【日本の女性史を学ぶ】女性の権利向上に尽力した人はいるも性差の不平等は続く
毎年3月8日は「国際女性デー」という、女性の権利向上に貢献した人々を称え、その歴史を改めて学んで未来へ繋げていこうという日。

この日に学んでおきたいのは、女性史です。

現代では考えられないくらいの、女性の権利低下や、徹底的な男尊女卑をしいていた日本の性差の歴史、それに立ち向かった女性。

そこで、こちらではそんな日本の女性史を簡単解説し、女性の権利向上に貢献した女性をご紹介していきます。

日本の女性史にみる不平等の歴史を一気見!

日本の女性史は、男女間の性差による不平等が現れ始めたあたりである飛鳥時代まで追っていく必要があります。

まずは、5世紀ごろに、倭の五王時代に女性首長が減少し軍事化が進んだことで、男性優位・父系化が進行。その後の飛鳥時代に、唐から伝来した儒教や仏教や律令には、家父長制や男尊女卑の要素が含まれたこともあり、性差が社会的なシステムの中でうまれる流れが始まりました。

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お市の方

平安時代になると、女性の政治力はかなり低いものとなり、一夫多妻制も成立します。その後、山岳信仰が広がる中で“女性が不浄である”という「女人禁制」といった概念も通例化していきます。

ちなみに、女人禁制とは、女人結界を早くにしいた平安初期9世紀初めの密教である天台宗や真言宗の「山岳仏教」により、男性修行者が世俗の欲望を断ち切る手段としていたものが、後に女性が生まれながらにして罪深く穢れているものとする罪業観、不浄観から聖地・聖域からの女性排除をするようにと広がったものという説があります。男尊女卑に影響していると考えられる概念で、女性を不浄視する理由には、出産時の出血の「産穢(さんえ=出産のとき、その子の父母の身にかかるけがれ)」や毎月の生理を「血穢(けつえ=身体の一部が身体から分離したものをケガレとみなす考え方)」としたことがあり、平安前期9世紀半ば以降、女性を社会中心がら排除していく社会変動があったといわれています。(『「女人禁制」Q&A』より/ 源淳子 著)

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その後、室町時代や戦国時代を経て、江戸時代には男性優先主義は定着。

例外を除き女性が家督を相続することもできなくなり、江戸幕府による「公事方御定書」には、密通により妻の貞操が侵された場合、夫は妻および相手男性を殺害しても「無罪」と書かれているほどでしたし、江戸幕府は人身売買を禁止したものの、遊郭は公認、遊女の身売りは黙認されていました。

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長い鎖国が終わり、江戸時代に築き上げられた日本独特の男女の役割や格差は、明治時代になると欧米からの影響により変化を迎えることとなります。

とはいえ、一気に人々の考え方や慣習が変化するわけではありませんでしたし、家父長制が法律に含まれることとなったために、女性の権利が低い状況は依然続いていました。

大日本帝国憲法下にある、家制度、制限選挙、集会及政社法(=女性の政治活動禁止を明文化した最初の法律)、治安警察法などで、「女性は家の中のもの」という位置付けとされ女性の政治不参加や家庭内での不平等が、法的に定められてしまいました。

しかしながら、日本の女性解放運動は、明治時代からそのきっかけが始まります。

「平塚らいてう」よる女性解放運動、「市川房枝」も参加し始まった初の女性団体である新婦人協会の設立などで、治安警察法第5条2項にあった女性の政談演説会の不参加が改正され、女性も演説会に参加できるようになります。

昭和初期までこの活動は続きますが、女性が政治選挙で投票できるといった参政権を勝ち取ることができるようになったのは、戦後1946年でした。

その後現代に至るまで、男尊女卑の事例や考え方が社会の中で完全になくなったわけではないですが、「悪しき考え方」という認識が広がり、マスメディアやSNSで批判され、男女の平等が一般の人々の生活に浸透し始めるまで、約1600年ほどかかっていることになります。

日本の女性史におけるヒーロー的存在

平塚らいてう

日本の思想家、評論家、作家、フェミニスト、女性解放運動家。
明治時代に、女性文芸誌『青鞜』を刊行。

創刊号には、日本の女権宣言といわれる有名な辞「元始、女性は太陽であった」を執筆。

女性解放運動の宣言として、よく知られています。

その後、「母性保護論争」で与謝野晶子と論争したことで、当時の世間を賑わせました。

「母性保護論争」では、11人の子供を産んだ晶子が「母性に甘えるな!」と女性の経済的人格的自立を求めるキャリアウーマンのような主張を展開し、婦人解放を唱えたらいてうは「母性は国の保護と社会で支えましょう」という主張を展開。

この母性保護論争を経て、1920年3月、「新婦人協会」を組織し女性の権利確立のための社会運動に乗り出し、国会請願運動の結果、1922年2月、女性の政談集会への参加および発起が認められることになりました。

これは、戦前の日本にとって、女性の政治的権利の獲得に成功した唯一の例です。

市川房枝

日本の婦人運動家、政治家(元参議院議員)。

平塚らいてうなどと新婦人協会を創立し、治安警察法第五条の改正運動を起こしました。

1921年に渡米も果たし、シカゴやニューヨークで米国の女性参政権・労働運動を見学し女性問題の研究に励むと、帰国後、婦人参政権獲得期成同盟会を結成。

「婦選は鍵なり」「平和なくして平等なく、平等なくして平和なし」という信念の元、明治から昭和にかけての婦人参政権運動の中心人物となります。

戦後、新日本婦人同盟結成。1953年から46年まで参議院議員も務め、女性の地位や権利の向上、女性のエンパワーメントの推進、平和活動や汚職政治の撲滅に尽力。

1975年の国際婦人年には、全国組織の女性団体に呼びかけ「国際婦人年日本大会」を開催し、国会においても超党派の女性議員を組織し、国連の女子差別撤廃条約の日本政府早期批准を求める最大のプレッシャーグループの先頭に立って活動しました。

上野千鶴子

日本のフェミニスト・社会学者(社会学博士)で、専門は家族社会学、ジェンダー論、女性学。

東京大学で初めて「女性学」という学問を打ち立てたパイオニアであり、日本のフェミニズムを40年率いている、日本における女性学の第一人者です。

2019年、東京大学の学長であった当時、入学式で述べた祝辞が大きな反響を呼び、話題に。

女子学生の置かれている立場や研究者の女性比率、男女の育てられ方の違いなど、社会に根強く残る不平等に言及し、正解のない問いに満ちた世界へと踏み出す新入生に「あなたたちの頑張りを、自分が勝ち抜くためだけに使わないでください」と呼び掛けたメッセージは、さまざまなメディアに取り上げられ、多くの女性の共感を得ています。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。

フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。

多くの著書も執筆し、「セクシィ・ギャルの大研究」「スカートの下の劇場」「女遊び」「女ぎらい ニッポンのミソジニー」「ナショナリズムとジェンダー」「家父長制と資本制」「快楽上等!」などの名著は多数。

編集長 Eriko
編集長 Eriko
SNKRGIRL編集長。アメリカ在住15年を経て帰国後メディアを創設。ダンサー/DJとしても活動。好きなスニーカーは「Air Huarache」。

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