Marjory Smarth (マージョリー・スマース)は、ハイチで生まれニューヨーク育ち。
幼少期にニューヨーク市へ移住した後、当時のニューヨークで起こっていた様々なムーブメントの中で多感な思春期を過ごし、その後世界中のストリートダンサーに影響を与えるまでになった伝説的な女性ダンサーです。
彼女が本格的にダンスに取り組み始めたのは4歳の頃。彼女の家庭は、日常的にダンスと音楽にあふれており、彼女自身も言葉を話せるようになる前から自然と踊っていたといいます。4歳のとき、姉のジョージー(Josie)の中学校のダンスイベントで初めてサイファーに参加。姉が「マージョリー、踊る?」と声をかけたことで場が和み、彼女は本能的に踊り始めたそう。
その後、小学校や高校ではショーや舞台に立ち続け、思春期になると「("テストステロン・サークル"と彼女が揶揄する)男性中心のダンスサークルを崩すため」といって、地域のダンスサイファーに入り込むようになります。
「彼らのことは大好き。でも、女性がいることも伝えなきゃいけなかったし、私の視点を示したかった。彼らには、それを受け入れてもらわないとね」と彼女は語っています。
ティーンエイジャー時代には、長年の友人であるイージョー・ウィルソン(Ejoe Wilson)とともに、週末を通して踊り明かす"ダンスマラソン"を行っていたそうです。金曜日から月曜日の朝まで、マンハッタンを歩き回り、ブロンクスやダウンタウンへ向かい、道中でダンス好きな仲間を加え、次々とストリートジャムやバトルに参加。「一瞬で場をかっさらって、それから次のジャムへ進む!」というスタイルで踊り続けたのだとか。
マージョリーはその後ノートルダム高校を卒業。ニューヨークのファッション工科大学(Fashion Institute of Technology)へ進学します。17歳でクラブシーンに足を踏み入れ、当時のクラブ文化を牽引していた世代と交流するようになりました。「私たちはクラブの中でかなりワイルドだったけど、アーチー・バーネット(Archie Burnett)やウィリー・ニンジャ(Willi Ninja)が温かく迎え入れてくれて、そんな人たちからクラブのエチケットを学んだの。バーバラ・タッカー(Barbara Tucker:大御所ハウスシンガー)とは、一目見てお互いを理解したわ。トンネル(The Tunnelというクラブ)で一緒に踊った瞬間、“あの人、私のこと絶対分かってる!”って思ったの」
そうしてストリートやクラブといった、ニューヨークのリアルなダンスカルチャーの中で育ったマージョリーは、その後ダンサーとして独立し、当時のNYダンスシーンでは先駆者ともいえる「プロのストリートダンサー」として、ミュージックビデオやパフォーマンス、ダンスレッスンなどで生計を立てるようにもなっていました。
17歳の頃にはヒップホップデュオ「Super C & Cassanova Rud」のミュージックビデオに出演し、プロとしてのキャリアをスタート。その後も30年以上にわたり、ダンサーとして活動を続け、ダイアナ・ロス(Diana Ross)、ヘヴィ・D(Heavy D)、シーシー・ペニストン(CeCe Peniston)など数多くのアーティストと共演した。映画や舞台にも出演し、ジャコブズ・ピロー(Jacob's Pillow)のような名門劇場での公演も経験。彼女のキャリアの中で、『ニュー・ジャック・シティ(New Jack City)』、『ブーメラン(Boomerang)』、『ストリクトリー・ビジネス(Strictly Business)』といった映画や、ハウスダンスのドキュメンタリー『Check Your Body at the Door』、PBSのドキュメンタリー『House of Tres』など、数多くの作品に登場しています。
そして、ダンスレッスンをすることにも早くから携わり、1994年までには海外でも活動するように。南極大陸を除くすべての大陸で指導を行ったというほど、世界各地でレッスンを繰り広げてきました。その結果、マージョリーはハウスダンスの分野で最も尊敬される女性ダンサーとして、世界中のダンサーに影響を与える存在となりました。
「私はただ"入り口"を開いているだけ。あとは彼ら彼女ら自身が、自分なりの表現を見つけていくものよ」と彼女は語ります。
彼女のダンスに対するフィロソフィー(=哲学)は、単なる動きを習得するだけではなく、自己表現やダンスフロアでの人々とのつながり、そして人生を最大限に楽しむことにありました。
彼女はいつも最高の笑顔を浮かべ、誰に対しても優しい言葉をかける存在でした。
「彼女は愛そのもの、そして光そのものだった」
と、彼女を愛した多くの人々は語り継ぎます。
世界的に有名なDJ Spinna(DJスピナ)は、彼女の影響力についてこう述べています。
「DJはしばしば、ダンスフロアのエネルギーを高め、感情を解き放つ役割を果たすと称賛されるけれど(それが本当に良いDJの仕事だからね)、俺にとってはダンサーこそが、そのエネルギーをくれる存在だった。マージョリーが会場にいると分かった瞬間、それだけで“今日は最高の夜になる”と確信できたんだ。彼女の動きには力強さがあり、俺を奮い立たせた。彼女はダンスフロアの上で、涙を流しながら、全身から汗を滴らせながら、何度も何度も、熱狂的なダンスを見せてくれた。それこそがDJにとっての原動力だったし、彼女は常に“ありがとう”と感謝を伝えてくれた」
マージョリーは、ダンサー、振付師、講師、そしてストリートダンス界における文化的リーダーとして、ヒップホップやハウスダンスの文化を世界中に広めたパイオニアでした。また、世界的に著名なダンサー、振付師、そしてインスピレーショナル・スピーカーとして活躍し、多くの人々に影響を与えました。
2015年、46歳の若さでこの世を去るまでに、彼女はアメリカ国内のみならず、日本、ロンドン、アフリカ、ロシア、イタリア、オーストリア、ブラジル、カナダ、台湾など、世界中のあらゆる場所で知識と情熱を共有しています。